123号

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ささやかで大きな違い

また『銀河鉄道の夜』の話です。
アニメ映画『銀河鉄道の夜』の原案になったのは、ますむらひろし先生のマンガですが、
そちらでは、タイタニック沈没の場面で、
子どもらばかりボートの中へはなしてやって、
狂気のようにキスを送るお母さんとともに、
悲しいのをこらえてまっすぐに立っているお父さんも、沈没する船の方にいます。
アニメでは、
沈没する船の方にいるのはお母さんだけで、
お父さんは、ボートへと飛んでくる子どもを受け止めた後、
息子を抱いて、狂気のようにキスを送るお母さんを見上げながら、
悲しいのをこらえてまっすぐに立っている。
つまり、沈没する船ではなく、ボートにいます。
原作の文章をみるに、マンガの解釈が正しいんだろうなあ、と思いますが、
映像にしたときには、確かに、
大きな船から子どもが飛び降りて華麗にボートに着地、というのも……。
なので、下で待っていて受け止める大人がいた方が納得できるよなあ、とも思います。
ゆえに、アニメの方も正しい。
だから何だという話ですが。

銀河鉄道の夜 (扶桑社文庫)銀河鉄道の夜 (扶桑社文庫)
(1995/03)
ますむら ひろし

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ますむらひろし先生の『銀河鉄道の夜』。
私が持っているのはこれで、最終形と初期形(ブルカニロ博士篇)が両方収録されています。
初期形(ブルカニロ博士篇)には、読んで字の如く、
ジョバンニが鉄道を降りた後(もしかしたら前にも)、
ブルカニロ博士という博士が登場しますが、
更に重要なのは、ブルカニロ博士が登場する直前、
つまり、ジョバンニが銀河鉄道を降りる直前、
つまり、カンパネルラがいなくなった直後に現れる、「やさしいセロのような声」の人。
声自体は、それまでもたびたびジョバンニの耳に届いていました。

上にアマゾンのリンクを貼った扶桑社文庫の『銀河鉄道の夜』は、
新刊で出たときに買った記憶があるので、私の手元にあるのは1995年から。
何かたぶんそういう気分だったんでしょう。
最終形も初期形も、好きなセリフに赤鉛筆で線が引いてあります。
中でも、「やさしいセロのような声」の人のセリフには、ほとんど。

有名な、
「さあ 切符をしっかり持っておいで
 お前はもう夢の鉄道の中でなしに 本当の世界の火やはげしい波の中を
 大股にまっすぐに歩いて行かなければならない
 天の川の中で たった一つのほんとうのその切符を
 決しておまえは なくしていけない」
はもちろん、
水が何で出来ているか、今は水素と酸素だと分かっているけれど、
昔はいろいろと議論した、といった後の
「みんながめいめい じぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう」の続き、
「けれども お互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも
 涙がこぼれるだろう」
というセリフだとか。
「そして みんながカムパネルラだ」
というセリフだとか。
「ぼくたちは ぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だって歴史だって
 ただそう 感じているのなんだから」
というセリフだとか。
特に、「そしてみんなが~」と「ぼくたちは~」は、
このときの、おそらく宮沢賢治の分身であろう
「やさしいセロのような声」の人の顔も好きだったようで、
コマ自体も赤枠で囲ってあって、速達郵便みたいです。

「やさしいセロのような声」の人が出てくる場面以外で、
赤線が引いてあるのは、たとえば、
鳥を捕る人がいなくなった後の、ジョバンニの、
「僕は あの人が邪魔なような気がしたんだ
 だから僕は大へんつらい」
とか。
アニメの方には出てこない部分でいうと、初期形の、
烏瓜のあかしを持ったザネリたちに、
「らっこの上着が来るよ」と囃されて逃げ出したジョバンニが、
町外れの川にかかった橋の上に佇んで、
「ぼくは どこへもあそびに行くとこがない」と独白した後の、
「ぼくは みんなから まるで狐のように見えるんだ」
とか。
過去の己ながら、
この子だいじょうぶかしら?仲良くしてくれるお友達とかいるのかしら?
と心配になります。


ますむら・ひろし宮沢賢治選集 2 (MFコミックス)ますむら・ひろし宮沢賢治選集 2 (MFコミックス)
(2008/09/22)
宮沢 賢治

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こっち↑は、2008年に出た宮沢賢治選集の『銀河鉄道の夜』。
この表紙が好きです。
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