123号

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

詩・教科書・たまご焼き

 茨木のり子さんが亡くなった、
というのを、今頃知りました。
 新聞は、毎日読まなければいけません。
 心からの弔意を。

 私が、茨木のり子さんを知ったのは、ご自身の詩より先に、教科書に載っていた「生まれて」でした。もしかしたら、それ以前に、ご自身の作品に触れたこともあったかもしれませんが、この人が茨木のり子か、と意識したのは、「生まれて」が最初でした。岩波ジュニア新書の『詩のこころを読む』の一部で、谷川俊太郎の「かなしみ」、『六十二のソネット』、「芝生」、石川啄木の短歌、それから、吉野弘の「I was born」が紹介されていました。

 私の通っていた高校では、筑摩書房の教科書が国語の授業で使われていました。この教科書で取り上げられている、特に現代文は、今見ても、ねずみ男風に言えば「うならせるね」という感じのラインナップでした。普段、あまり本を読まない同級生なども、石原吉郎の「麦」や太宰治の「水仙」には、「これはすごいね」と言っていました。
 何やら国語にかこつけて、国語以外のことも教えようとする雰囲気も、なきにしもあらずなのですが、それでも、『国語Ⅰ』に三木卓の「はるかな町」を載せ、『国語Ⅱ』を中島敦の「山月記」で締め、3年生の使う『現代文』に武田泰淳の「審判」を忍び込ませたところに、編集された先生方の、大人としての優しさと、責任感がうかがえるような気がします。それで、今でもこの3冊は大事に持っています。

 さて、茨木のり子さんの「生まれて」では、特に吉野弘の「I was born」に対し、教室のあちこちで、「これはすごいね」という反応が見られました。もちろん私も、そんな反応をした1人です。
 おもしろいものを紹介してくれる人は、きっとおもしろいものを書いているにちがいない、とその後、『詩のこころを読む』、そして、茨木さんご自身の詩へと、進んでいきました。
 『詩のこころを読む』では、昔、やはり教科書に(おそらく)載っていた黒田三郎の「夕方の三十分」と再会できたのが、嬉しかったです。今、手もとに現物がないので確かめられないのですが、この詩は、茨木さんの解説も良かったような気がします。相乗効果。
 ご自身の詩では、おそらく最も有名なものなので、何となく恐縮なのですが、やはり「わたしが一番きれいだったとき」が良いと思います。良い、というのは、好きだ、ということです。

 「夕方の三十分」は、コンロで炊かれるご飯や、調理の合間合間に飲まれるウイスキーのおいしそうさが良かった。食べ物がおいしそうか否か、というのは、マンガや小説を楽しむ際の重要なファクターの1つですが、詩にだって、それはあてはまります。
 かき混ぜられたたまご、切られたネギ、ひとさじの化学調味料、フライパン。どこにも書いていないけれど、オトーチャマは、ネギ入りのたまご焼きを作っているにちがいないのです。
 たまご焼きはすばらしい。
 うちのたまご焼きの味つけは、出し巻きたまごを作るぞ、と意気ごまないかぎり、しょうゆオンリーです。甘いたまご焼きなんて認めません。ご飯のおかずが甘くてたまるか。たまごをよくかき混ぜて、そこにしょうゆをジャッ、刻みネギをドサッ、それをたまご焼き用のフライパンで焼く。焦げない程度に強火で焼く。真ん中に納豆を巻いて、たまご焼きだかオムレツだか、判然としないものにしてしまうのも良い。おいしい。
 と、たまご焼きに対する限りない思いを、惹起させられてしまうのだから、「夕方の三十分」は、良い詩だと思います。たまごの黄色と、折り紙の赤で、視覚的なイメージにもあふれていました。
 個人的に、「夕方の三十分」は、たまごのおいしそうさという点で、あの『ぐりとぐら』にも匹敵します。『おしゃべりなたまごやき』は、表紙の、にわとり小屋の前にたたずむ王様の後姿に、グッとこないこともないのですが、目玉焼きなのでノーカウント。目玉焼きはあまり好きではないのです。でも、諸星先生の『殺戮詩集』(栞と紙魚子)に出てくる、ケヒリヒのたまごの目玉焼きは、おいしそうだと思います。こちらが食べる前に、あちらに食べられそうですが。

スポンサーサイト

コメント


管理者にだけ表示を許可する
 

 

トラックバック

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。